印鑑のこんな運用

そして、それは単にどんな「対策」によるかなどというのではなく、後にも述べるように、自分自身の生き方について深く考え直すことにも通じてくるのである。
 学校や家庭内でいわゆる「問題児」と言われる子どもたちに、私たち臨床心理家はたくさん会ってきた。
そして、その子どもたちを「普通の子」にする、つまり、マイナスをゼロにするなどということではなく、そこから多くのプラスのことが引き出されてくることを経験した。
前節に述べたように、「問題」を解決することによって、本人もその周囲の人も得るところがある。
そこには、何か新しい建設が行われるのである。
 臨床心理学とか心理療法とかいうと、病気の人間を普通の状態に戻す、というイメージをもつ人が多いが、そうではない。
このような、マイナスを通してプラスが生まれる過程は、本来的「教育」そのものと言っていいのではないだろうか。
そこで、教育ということを「臨床」という視座から見てはどうだろう、と思うのである。
 ある母親が相談に来た。
彼女は家に帰ると必ず郵便箱を開けてみる癖があったが、開けてみるとピストルがはいっていて仰天する。
よく見るとそれは玩具であることがわかって、ほっとしたものの、なぜそれが郵便箱に入れてあるのかわけがわからない。
小学三年生の息子に訊くと、はじめは渋っていたが、近所の子のもっているのを盗んで、そこに隠しておいたのだと言う。
 すぐに子どもと一緒に返却に行き、あやまってきたが、子どもがあまりにも犬それたことをしたこと、それに「隠しておく」にしては、すぐに見つかるところに入れておくのも不可解だし、ということで来談した、と言う。
私はそれが「郵便箱」のなかに入れてあることに注目した。
「それがもし、子どもからお母さんへの手紙だとしたら、子どもはどんなことが伝えたかったと思われますか」と尋ねてみた。
 しばらく思案していた母親は、なかなかわかりのいい人だったのだろう。
自分は「平和」ということの大切さを考えすぎて、子どもにピストルなどの武器の玩具を絶対に買ってやらなかった。
子どももおとなしい素直な子と他から言われてきたが、仲間の男の子がするような遊びをしたくなったのかもしれない。
考えてみると、自分は姉がいるだけなので、男の子というものがどんなふうに育ってゆくものか、実感がわかない。
子どものおとなしいのをよいことに、男の子として育ってゆくことをおさえていたのかもしれない、と語った。
 子どもが少なくなったことや、核家族になったために、このようなことが生じることがある。
母親が兄弟をもたなかったために、男の子の育ってくることについての実感がないので、うまくゆかないのである。
見方をかえる母親は自分の子育ての姿勢を反省するうちに、「私があまり与えてやらないので、あの子も人様のものを盗らざるを得なかったのですね」と言う。
この発言は、ギリシャ神話のプロメテウスの姿を想い起こさせる。
神々が人間に火を与えないので、とうとう英雄プロメテウスは、ゼウスのもっていた火を盗んでくるのである。
彼はそのために厳しく罰せられるが、人間はそれによって新しい文化を築くことになる。
 盗みは悪い。
これは動かしがたい。
この母親がしたように、子どもを叱り、返却してあやまることはさせねばならない。
しかし、盗みの行為を罰するだけでは、十分ではない。
その行為を否定しつつ、その行為に内包されている「心」の方を生かすことが必要なのである。
子どもが盗んでまで、わがものにしようとしたものは何か、ということを考える必要がある。
 この母親は大変に理解力のある人だったので、子どもの望んでいるものを悟り、子どもの遊びに対する許容度を高くするようにした。
子どもの交友関係も変わり、動作もきびきびとしてきたのである。
「平和」を知るためには、武器を使っての遊びの体験が必要なのである。
自由な遊びを通じて、子どもは実に多くのことを自ら学んでゆくのである。
この例が示すように、盗みというマイナスのことが、親の子に対する理解を深め、子どもの活動性が高まる、というプラスのことを生み出したのである。
臨床心理学というのは、clinical psychologyの訳語である。
クリニックと言う語の語源はギリシャ語のクリニコスであり、「床」を意味している。
そして、もともと「臨床」というのは、死の床に臨むことであり、宗教的な用語であった。
死んでゆく人のべッドの傍にあって、その人のたましいの世話をすることが、「臨床」であったのである。
それは言うなれば、死という悲しい事実のなかに、それを超えた光を見出す仕事だったのである。
 もともとの「臨床」という用語を少し拡大して、教育の場にそれを適用してみてはどうであろう。
われわれが床につくのは、死のときだけではない。
その他にも病気、休息などがある。
そして、一般的には病気よりは健康が、休息よりは仕事が価値あるものとされているときに、病気や休息(それを広義に解釈して、遊び)の方に光を見出すような価値観をもって、教育を見直すことはできないであろうか。
 死、病い、遊びなどに光を見出すと言っているが、そちらの方が価値が高いなどと言うのではない。
健康や仕事に価値があるのは当然である。
そのことを認めたうえで、だからと言って、死、病い、遊びなどを全否定するのではなく、そのなかに光を見出すようなダイナミックな価値観をもって、教育を見直そうというのである。
そのような視座をもつことによって、教育に関する異なった風景が見えてくるのである。
 誤解のないように再度強調しておくが、これは価値観をまったく転倒させようとするものではない。
健康や仕事や生きることの価値を認めたうえで、一様化の押しつけによる生命力の涸渇を防ぐために、それを活性化し、逆からの視座をもって見てゆく態度も持とう、と言うのである。
そのダイナミズムをよく把握していないと、たちまち足もとをすくわれてしまうことになろう。
病いには意味がある。
もちろん、病いより健康の方がいい。
しかし、病いによって深い意味のある体験ができることがある。
人間が成長してゆくためには、外的な世界とのかかわりをもち、そこで活躍するとともに、内的な世界をも豊かにしてゆかねばならない。
病いは、外的な活動を止めさせる代わりに、内的な世界の存在に気をつかせてくれたり、内的な成熟を促進してくれたり、するのである。
 子どもたちも、時に立ち止まって内面を見たり、あるいは内的成熟の進行中は、じっと立ち止まっていたりすることが必要である。
このようなことは成長の節目に起こることが多く、案外そのようなときに病気になって、「よかった」と思ったりする。
子どもの場合は、心と体との境界が大人ほど明確ではないので、そのような意味での休息が、体、心、心身症などの、どの病いとしてあらわれるかわからないほどである。
 これは暴論かもしれないが、以前は適当に子どもが病気をして、内面化の機会を与えられていたが、最近は医学が発達して、簡単に病気になれないので、「不登校」などということによって調整をしているのか、とさえ思われるのである。
この点については後に論じるが、不登校の子どもに、「必要な引きこもり」の感じをもつことがよくある。
それは広義において、非常に健康な反応なのかもしれないのである。

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